定家が後鳥羽院の勘気を受けた翌年の承久三(1221)年、後鳥羽院は、鎌倉幕府の倒滅を図りつつ敗れた承久の乱の結果、隠岐に配流になります。この時、院は42歳、定家は60歳でした。しかし、院は隠岐に移された後も、「新古今集」の精選だけでなく、いくつもの和歌についての営為を残しています。
そのひとつが「時代不同歌合」です。平安時代の三代集時代までの歌人50人と以後の時代から50人を決め、各人の秀歌3首を選び、左が古い歌人の歌、右が新しい歌人の歌を配して歌合形式で番(つが)わせたものです。つまり冒頭で示せば、一~三番の左は柿本人麻呂の歌、同じく右は源経信の歌で、各3首が対になり、四~六番は、山部赤人と藤原忠通となっています。和歌総数は300首ですが、「百人一首」との相違を見ると、歌人は64人が一致し、そのうち36人は歌も一致するものを含みます。
定家の和歌も「百人一首」のものとは違いますが選ばれており、元良親王と対になっています。それについて、
〈元良親王といふ歌読みのおはしける事初めて知りたる……家隆は小野小町につがふ、……〉
と、番いになった元良親王という歌人を初めて知った、自分と同程度の家隆は有名な小野小町と番いなのに、と定家が不満を言ったという伝えが「井蛙抄(せいあしょう)」という歌論書に見えます。しかし、元良親王は、陽成院の皇子で親子とも「百人一首」に歌が入っていて、定家が知らないという伝えは信頼できません。また、定家に並ぶ歌人の家隆が小野小町と対になっているのが不満だったようですが、後鳥羽院が村上天皇の皇子の具平親王と対になっていることに匹敵するとしたら、むしろ編者の院は定家を重んじていたと見るべきだともされます。
「百人一首」の歌人や和歌には、平安時代以来の秀歌撰と呼ばれるものとの一致もありますが、「時代不同歌合」との一致は特に注目されます。後鳥羽院によるこの作品を定家が見て、互いに人生で和歌を重んじてきた身として、おおいに刺激を受けたと見る妥当性は小さくないように思えます。
後鳥羽院と定家の関わりについて見てきましたが、前回示したように、時代状況としては後鳥羽院の歌を「百人一首」に含むことは不都合なことで、しかも院とは譲り合えない心を持つに至った定家が「百人一首」に院の歌を入れた編者だとすることは単純には成り立ちがたいとも言えます。
しかし、定家の院に対する、和歌詠作の局面や日常での振る舞いなどでの反発は大きいにせよ、院が「新古今集」編纂以来の和歌世界における未曾有の変革に大きな力になったことと、それ以前の和歌史を重ねた時、晩年に至った定家の思いとしては、あえて院の歌を「百人一首」の最奥に据えようとしたという可能性は棄てがたいように思います。
なお、「百人一首」での後鳥羽院の重要性については、
当コラム2回目(百人一首には順番があった?)をご参照ください。