三条院は、天皇として短い期間を道長の権勢とのせめぎ合いに過ごして、病い、特に重い眼病が基で退位に追い込まれ、直接の皇統の継承も途絶えたように見えます。
本コラム(5)で紹介した陽成院と同様に、天皇としての暗さに注目されて「百人一首」に選ばれた人物だろうとの推測ができます。
しかし、上に少し触れましたが、中宮・妍子が産んだ禎子内親王は、69代の後朱雀天皇の中宮となり、71代の後三条天皇の母となります。その後、後三条天皇と藤原能信(よしのぶ)の養女・茂子との間に生まれ、特に道長の子ながらも異母兄弟の頼通と対抗する能信の尽力もあって即位したのが72代の白河天皇です。その後の皇統は後鳥羽院や順徳院へと屈曲なく続きます。それは、逆に「百人一首」成立の時期から遡って見れば、三条院からの皇統は一旦途切れたように見えつつも、実は、三条院がその後の皇統を導いたとも言えると思います。
「百人一首」には親子等で入っている作者が多くあります。例えば親子なら紫式部(57番)と大弐三位(58番)、和泉式部(56番)と小式部内侍(60番)、清原元輔(42番)と清少納言(62番)等です。祖父から孫までなら、源経信(71番)・俊頼(74番)・俊恵(85番)がいます。三条院には、66番の和歌の作者の行尊が曾孫にあたります。
〈もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし〉
私と一緒に、お互いをしみじみ愛しいと思ってくれ、山桜よ。おまえ以外には知る人もいないのだから、という内容です。「金葉集」の「雑上」にあって、作者が奈良県大峰での修行中に詠んだ歌です。
ここで、「百人一首」での和歌の配列を見ると、親族の場合は上のいくつかの例では、世代の時代順に従って前後が決まっていますが、三条院は68番で曾孫の行尊の方が前にあるという点で唯一の例外です。編者のなんらかの誤りだろうともされますが、筆者は、編者がその当時の皇室を導いた重要人物として、三条院を意図的に引き寄せた結果、曾孫の行尊より後ろに配列されるようになったのではないかと考えています。したがって、「百人一首」の編纂に際して三条院については、天皇在位から退位に至るまでの悲劇性と、その後の皇統が復活して継続するという二面性が注目されているのだと思います。
10月18日(旧暦9月13日)は、十三夜で「後の名月」です。三条院の詠んだ月に思いを馳せながら、名月を眺めてみてはいかがでしょうか。
《参照文献》
百人一首の作者たち 目崎徳衛 著(角川書店)
三条天皇 倉本一宏 著(ミネルヴァ書房)
院政期政治史研究 元木泰雄 著(思文閣出版)
王朝の変容と武者:古代の人物6〈三条天皇 藤原道長との対立〉 中込律子 著(清文堂出版)
栄花物語・大鏡 新編日本古典文学全集(小学館)