源内亡き後、時の権力者田沼意次も、急速に曲がり角に。一大プロジェクトだった印旛沼干拓が大洪水で難航、明和の大火、浅間山の噴火、と相次ぐ災害に天明の飢饉が重なり、そのすべてが、今ふうに言うならば「タヌマガー」という反田沼派の批判にさらされ、さらに1786年には最大の後ろ盾であった将軍家治が死去。意次は失脚します。その際、反意次派で次の老中首座に収まった松平定信により全財産が没収されますが、ほとんど財産らしいものはなかったといわれます。
松平定信は、田沼と逆方向に舵を切り、緊縮財政、貿易制限と外国排斥の政策を押し進めます。一方で荒廃農村の再建や飢饉対策の米備蓄(囲い米)、無宿者への職業訓練制度「人足寄場」など、善政にも努めた清廉な定信でしたが、その政策はことごとく空回りし、わずか六年で失脚してしまいます。
ちなみに、源内が安永5年(1776)に日本で初めてエレキテル(摩擦起電機)の復元修理に成功し、しばしば深川清住町(現在の江東区清澄一丁目)の自宅で実験を行い人々に見せた由来から、平賀源内電気実験の地の碑がこの地にあります。清澄公園をはさんだ清澄白河駅のほど近くには、源内のパトロン意次と対立した松平定信の墓所があります。何かしら因縁めいたものを感じざるを得ません。お近くに寄った折には、どちらも見学してみてはいかがでしょうか。
破魔矢発祥の神社 新田神社