話変わって日本列島の西端、大陸に近い海に浮かぶ長崎県対馬は、古くより海洋民が漁労を営み暮らしてきた地域です。
島内には壮麗な和多津美(わたつみ)神社や海神神社が鎮座します。そして海辺にある亀の甲羅のような模様の浮き出た泥岩を「磯良恵比寿(いそらえびす)」と称し、祭事をおこない信仰してきました。この磯良恵比寿こそ、エビス信仰の原型ではないか、との説があります。
磯良とは海洋民の一族とされる安曇(あずみ)氏の祖神・安曇磯良で、神功皇后の三韓出兵の際に海流・干満を操る珠を献上して、侵攻を助けたとも伝えられる海神です。
また、入江に建つ和多津美神社の社殿前のじくじくとした浜辺には、足が三本で三角形をなす「磯良恵比寿の磐座」と称する不思議な鳥居があります。この異形の三柱鳥居は、京都の太秦、渡来民・秦氏の本拠地の蚕(絹織物)の社こと木ノ嶋神社にも存在します。秦氏は聖徳太子の側近としてキリスト教やユダヤの神話を日本に伝えたともいわれる渡来系氏族。なにやら、はるかシルクロードの彼方の中東、パレスチナ、イスラエルの気配を感じます。
遠い昔、紀元前1300~1200年ごろの時代、モーセに率いられたイスラエルの民は、エジプトを脱出してパレスチナの地にたどりつきます。この当時、西から地中海の東海岸域に、複数の「海の民」と呼ばれる集団も渡来し、パレスチナ地域に勢力を広げ始めていました。ペリシテ人、それとは系統が異なるノアの子ハムを始祖とする「カナンの11氏族」と呼ばれた人々です。イスラエルの民はペリシテ人と激しい戦いを繰り広げ、ペリシテ人を駆逐します。
一方、カナン人はイスラエルに恭順し、同化しながらユダヤ文明をともに築いていきました。海洋民であるカナン人の多くは地中海で交易網を広げ、各地に港湾都市を築いていました。ギリシャ人は彼らをフェニキア人(ポイニケーとも Φοινίκη Phoiníkē)と呼びました。イスラエル王ソロモンは商才と多彩なインフラ技能に長けたカナン-フェニキア人とともに、地中海のみならず紅海まで広く海岸一帯に勢力を広げ富を築きました。フェニキアには紀元前600年ごろ既に、船でアフリカ大陸を一周するほどの航海術があったのです。
イスラエル王国の聖都エルサレム地方に先住していたカナン人。これを「エブス人」といいました。「エブス(Ebus)」という名はフェニキアの海洋民にとって特別な名で、我々日本人が自国を「ヤマト」と自称するのにも比況できます。
ヨーロッパの西の果ての港湾や島にもフェニキアの船団は町を築きましたが、エブスの名は、スペインのイビサ島 (Ibiza)にもその名残が見られます(カタルーニャ語ではエイビッサ=Eivissa)。彼らがはるか東へと舵を向けたとしてもおかしくありません。
そう、「エブス人」は日本列島にたどり着き、先進の文化を伝えるまれびと神となったとも考えられます。
「エブス」こそ、「エビス」の語源ではないでしょうか?
彼らは「ツロの紫」と称される、巻き貝の鰓下腺から抽出する分泌液を用いて緋色、赤紫、青紫に染める染色技術を伝承し、ローマ帝国ではこれを「フェニキアの紫」として格別珍重したのです。エブス-エビスの伝えた色だからこそ、日本ではこれを「えび色」と称したのではないでしょうか。中国ですら存在しなかった貝紫の染色技術が、日本では弥生時代の吉野ヶ里遺跡から見つかっているのです。
日本列島へのイスラエル文明人の渡来、いわゆる「日ユ同祖論」は、トンデモ歴史学の類に分類されがちで、すべてを鵜呑みにはできませんが、少なくとも謎とされる「えび色」「エビ」の名の起源も、「エビス」という神様の由来や由縁も、筆者的には、きれいに説明がつくような気がしてなりません。
参考・参照
えびす信仰事典 吉井良隆 編 戎光祥出版
神道の本 学研
源平盛衰記えびす宮総本社 西宮神社