芦屋の町を見渡すことができる霊園。
この町で生まれ育ち、若くして亡くなった娘の恵子さんの遺骨が納められています。
村田雅男さん:芦屋に帰りたいっていうのは、恵子が亡くなったところだから。
そう語るのは村田雅男さん(83)。
ずっと続くと思っていた平穏な暮らしは、31年前に突然絶たれた。
■阪神・淡路大震災が奪った娘の命
1995年、最大震度7の揺れが襲った阪神・淡路大震災。
兵庫県芦屋市にあった村田さんの自宅は倒壊し、娘の恵子さん(当時21歳)が亡くなった。
猫と読書が大好きだった恵子さん。
前日の夜に、大学の卒業論文を書き終えたばかりだった。
■父と娘の繋がりは”本”
自宅には、いまだに震災のときに崩れたタンスがある。
その中には、恵子さんが読んでいた本が並んでいる。
恵子さんはお母さん子で、仕事一筋の村田さんとの間にあまり会話はありませんでしたが、本を介すると話が弾みました。村田さんの一番の思い出だ。
村田雅男さん:『お父さん、この本面白いで、読み』って、たまに持ってきて。私が読んで批評して返してた。本の中では”知り合い”だった。
亡くなってから、恵子さんが読んでいた本を全部読んだという。
これまで村田さんは、恵子さんのことをあまり人に話してこなかった
自分だけの大切な思い出として、心の中にしまっておきたかったのだ。
■「生きていた証を残したい」妻・延子さんの思い
対照的だったのが妻の延子さんだった。
震災直後から「恵子さんが生きていた証を残したい」と、取り組むようになった。
がれきの中から探し出した恵子さんの卒業論文を提出。
特別に卒業が認められ、同世代の学生たちにこう語りかけた。
妻・延子さん:みんな、恵子の分まで元気で幸せに生きていってください。ありがとうございました。
■妻・延子さんが言えなかった言葉と後悔
延子さんは恵子さんと一緒に家の下敷きになり、最期の瞬間を目の当たりにしています。
妻・延子さん:恵子が『お母さん、お母さん』と言うけど、『お母さんは動けないから恵子ちゃん待ってて』って。とにかく『呼吸ができてるか』という問いに恵子の返事はなかったんです。強い子でしたから、叱ったんです。『泣いてはいけない』って。その時にぴたっと泣き止んだんです。それからしばらく…。
『恵子ちゃん、ありがとう、お世話になった』と言いたかったです。言いたかったけど、言ったら永久的に戻ってこないって思ってしまうから言えなかった。『恵子、ありがとう』って言いたかった。言いたかったのに言えずに恵子を死なせてしまったことが一番の後悔だ。
「誰にもこんなつらい思いをしてほしくない」と、延子さんは震災の経験を語り継いできた。
■「芦屋に帰りたい」夫婦の願いと現実
震災後、神戸市に引っ越した夫婦の願いは、恵子さんと暮らした芦屋の街に戻ることだった。
当時は金銭面の問題などが立ちはだかっていた。
妻・延子さん:私は希望は持っているんですけど、生きて帰ってきたいな。
その後、延子さんは2度脳梗塞で倒れ体が不自由に。
それでも「必ず芦屋に帰る」という思いで、懸命にリハビリに取り組んだ。
妻・延子さん:芦屋に住みたいのは、『恵子と歩いた道を歩きたいな』って。元気になって奇跡が起きるかも。
その願いは叶うことなく、延子さんは去年亡くなったた。
遺骨は、娘の恵子さんと共に、芦屋市にある墓に納められている。
■”妻の言葉”が変えてくれた気持ち
これまで、震災や恵子さんについて多くを語ってこなかった村田さん。
しかし、生前の延子さんの言葉が、気持ちを変えてくれた。
妻・延子さん:お父さん、ちゃんと答えなさい。答える義務がある。恵子のために」
村田雅男さん:家内は震災の悔しい思いをみんなに知ってもらわなあかんと、そのために生きるんやって、それはあったやろうな。
私は、ちょっとでも役に立ったらええかと思う気持ちだけです。みんなが、こういうことを気をつけなあかんなという、少しでもお役に立てるなら、役に立つのはいいかな。
■村田さんにとっての1月17日は
村田さんはことし初めて、2人がいない1月17日を迎える。
村田雅男さん:つい昨日のことだと思うけど、もう31年も経ったのかと。
思うしかない。こう言うたからこう言うかなあぐらいしかないやろ。実際話ができないからね。向こうの世で会っていれば、いろいろお話してるやろな。
さみしいけれど、2人のことを考える日にしたい。
村田さんは、そう思っている。
(関西テレビ「newsランナー」2025年1月14日放送)
